冬は良く眠れます

 ざっと九時間ほど眠れた。うひひひ。やはり自分は十時間眠らないとダメな人間なのだろうかな。ちなみに平日の睡眠時間は六時間から六時間半・・・ちびっと足らないですネ。
 眠りながら考えた事は昨日の続き。
 織田信長尾張織田弾正家は木曽川の川港である津島や熱田の宮などを掌握する事で発展してきました。商業拠点を掌握しているんですな。ちなみに当時の宮は港町でした。伊勢湾海運の拠点です。
 尾張を掌握した後、信長は三河徳川家康と同盟しつつ東濃へと勢力を拡大します。これは西濃では斎藤氏の勢力が根強く攻略が難しかったから、比較的小規模の豪族ばかりの東濃に矛先を向けたという説明が通説ですが、どうなのかな?
 津島は木曽川に面した港町です。そして東濃は木曽川流域です。西濃は長良川揖斐川流域。自らの拠点が商業圏にしているのは木曽川でしょう。ならば津島で商う人々の利益の為に、東濃を掌握しようとした事は、十分にありうるわけで必ずしも攻略しやすさだけを念頭においたのではないと思います。山がちな地形で耕作地が少ないということは兵力を投入し辛いという事であり、必ずしも攻略しやすい訳ではない。その意味では、木曾三川の要害を持つとはいえ平野が多い西濃の方が攻略しやすいわけです。川さえ掌握すれば。
 あと小規模の豪族とはいえ、縁も所縁もない勢力に降る事はないわけで、商業的なつながりが織田家、あるいはその傘下の武将、商人たちとあったと考える方が妥当です。ちなみに東濃攻略で名を馳せた丹羽長秀は現在の江南あたりの豪族。つまり木曽川に沿岸で東濃に近く、事情にくわしい武将であったわけですナ。秀吉は行商人のルートから情報収集や調略に手柄があったかも知れない。
 もう一つ。西濃攻略とほぼ平行して信長は滝川一益に知多の海賊衆を掌握させ、あわせて北伊勢の調略をさせています。甲賀出身といわれる一益と知多半島は一見なんのつながりもなさそうですが、甲賀は忍者の里と後に言われます。忍者の実態は後方撹乱という火付け強盗を得意とする連中であるらしいのですが、後世のイメージは徳川幕府のお庭番ですから、しかし貧しい甲賀から出てならず者として生きる者ばかりでなく、行商や芸人として生きている人もいるわけで、ひょっとしたら滝川一益という人もそうやって伊勢海運で商業に携わる人だったのかも知れません。
 この辺りまでは、津島、宮の利益拡大をメインにした勢力拡張だったのではないかと思います。西濃攻略も木曾三川流域完全掌握を目指したと考える方が妥当かも知れません。
 そして足利義昭を抱え込む事になって転機が生まれるわけですナ。