寝つきが悪いなり

 おかしいな。前は大変寝つきが良かったのに。風邪をひいて体内時計が狂ったか?治って欲しいのぉ。
 読み終わったもの。一向一揆石山合戦
 よく織田信長最大の敵は武田信玄でも毛利でもなく石山本願寺だったー・・・なんて言われるのですが、この本願寺が信長と敵対する過程、まったくもって主体性がないように思えます。はっきり断定される訳ではなさそうですが、本願寺教団は親鸞の血統のみを誇る弱小教団だったようですが、細川政元と積極的に結びついた事で勢力を増した集団のようです。原理は簡単。時の最大の権勢家の庇護の下、自らの檀家を守る。寺院境内は中世において治外法権の聖域とされていましたが、単なる概念ではなく実際にそれを守る力を備えていたということ。門徒の自警団もあり、権力者のお墨付きももらっている。侵害するものは実力排除。それがダメなら高位権力者に排除してもらう、という構造。
 本願寺が戦国期最大の勢力を持った宗派になったのは中央の主権者に必ずくっついたからだと思います。例えば法華宗は足利将軍の庇護下にあるのですが、将軍権力が下り坂になってたびたび京から逃げ出さなければならない情況では、門徒を守る事ができません。本願寺はうまく立ち回り、三好長慶の後ろ盾を得ていましたし彼の死後は三好三人衆とも懇意でした。
 また本願寺が反信長に立った理由は、直接的には三好三人衆との間柄、間接的には信長を弱体、あるいは排除しようと画策する足利義昭の姿があるように思えます。
 後世の立場からすれば信長の神輿にのって将軍になった義昭など何の実力もないように思えますが、足利将軍の影響力は凄まじく、建て前上武家というものは征夷大将軍の命に従う義務があり、義昭の活発な活動によって、浅井朝倉、六角、武田、三好、丹波、丹後の群小大名、畿内の諸勢力、つまり信長領国の内外に彼は味方をつくって戦を仕掛けた訳です。実際信長は政治力のほとんどを駆使して、つまり将軍を超える権威である朝廷を活用する事によって危機を乗り越え、実力で敵をなぎ払い、やっとの事で勝利を収めました。本願寺にしてみれば既成の世俗権威に従う事は、王法と仏法を分けて使うという事は当たり前というか、そうやって生きてきたのですしね。
 他の事は、また次回〜