居睡り分が足りません・・・

 何言ってんだか。世の中の人で昼寝していない人はいくらでもいるぞ!しかし、食後に居睡りできなかったので少し頭がぼんやりしています。ぼやぼやーん。
 武田信虎の本を読み終えました。何となくもやもやした部分が晴れたみたいです。彼が息子晴信(のちの信玄)によって領国を追放され、このクーデター劇が何の波乱もなく受け入れられたのは、
 ①彼の領国支配、戦略に一貫性が見られないこと。
 武田信虎関東管領上杉家との同盟を機軸にし、今川・北条と対立していたのですが、関東管領家の当主が亡くなり変わって幼い跡取がたったこと。当時武蔵南部に勢力を持っていた扇谷上杉が北条との抗争で弱体したこと。そして今川家の後継者争いで義元を支持し、今川当主となった義元と友好な関係を築けた事により先代より敵対関係であった今川家と手を結ぶ事になります。
 ところがこれが、彼の領国支配の中核であった奉行衆に不人気で、彼としては今まで対武田の急先鋒であり今回の今川家後継者争いで敗退した福島家の面々を匿った家臣を処罰した事は正しかったのですが、どうもそれがきっかけで奉行衆が国外へ退去してしまったようです。
 本来戦国大名として甲斐国を支配する上で最も支持してくれるはずの家臣が逃げ出してしまったのですから、おそらく彼の支配力は弱まります。
 ②折り悪く百年に一度の大飢饉が発生したこと。
 隣国の北条ではこれを気に代替わりが行われ、氏綱から氏康に当主が変わり徳政などの領民救護策が取られています。人心一新と世直しが図られている訳で、これは当時としては当たり前の事でした。
 支配力の弱まった先代を追い出し新しい支配者の下で『世直し』をする。それに乗っかった晴信は波風を起こす事無くクーデターを遂行できたのでした。なので他国からは『親不孝』と罵られても甲斐国で晴信を悪く言うものはいなかったのです。共犯みたいなものだから。
 加えて隣国今川義元の協力は不可欠でした。正妻の父であり、武田と同盟した事で長年の味方であった北条を敵に回した義元は信虎の支援がありがたかった筈ですが、どうも信虎の信濃への拡張政策に含むところがあったようです。なので秘密裏に娘である義元妻に会いにきた信虎を手元に置きながら、それを旗頭に甲斐へ攻め込む事はしていません。信虎の隠居料に関する事で晴信に催促していますが、武田と今川の同盟関係は義元存命中は破綻しませんでした。
 たぶん、これが真相なんでしょうね。
 結構面白かったなー。・・・戦国の悲劇とかって決まり文句が出てくる以外は。不幸な結婚なんてどんな時代でも存在するから、昔の女性は政略の道具にされた、という視点だけは受け入れられないや。人それぞれ、立場を利用して好きに生きた女性もいたし、性格の弱い人は流されるままだっただろうし、決まり文句だけはいらねーよな。