冬らしい一日でした。

 床屋にいってさっぱりした〜。そしてエルリック・サーガの六巻が出たので買いました。まだ読んでいません。読み終わったのは封神演義の辞典ものと『鏡の国の孫悟空』です。
 封神演義は、もう一度安能さんのお話を読み返すべきですが、つくづく翻訳版を読まなくて良かったなーって思いました。安能さんの小説は日本人にも受け入れられやすくなっております。昔ジャンプでやっていた『封神演義』も元ネタは安能さん版とかいっていました。・・・全然別物ですが。
 『鏡の国の孫悟空』は、どうやら訳者がルイス・キャロルとかの作品を念頭において研究、翻訳していたためで、本当の題は『西遊補記』・・・だったかな?だいたいこういう中国古典小説の続編は、単なる二番煎じで、名前が変わっているぐらいなのですが、『補』は火焔山のエピソードの後に入る独立した、新たな挿話という体裁をとっています。つまりオリジナル性が強い。話は孫悟空が一行の食べ物を探しに出かけたおり、とんでもない倒錯、へんてこ世界に紛れ込み、一種のパラレルワールドで困惑、助っ人に「これは神通力広大な妖魔の仕業だよ」と教えられ、とって返すと妖魔が新たな三蔵の弟子になろうとしている。これを倒してめでたし、めでたし。なのですが、確かにこういう物語は珍しいといえば珍しいです。
 男気溢れる悟空と思えぬ(道で出会った婦女子たちを叩き殺す)場面があって、違うだろ?とか思う事もありますが、オリジナリティのない続編群の中にあっては、確かに独自性があります。・・・もっともそんなに面白いとは思えず、これが明末清初の混沌とした時代の文人の限界か、はたまた訳者のセンスが悪いのか、というところでしょうか?
 というよりも、雑劇から発しお客の辛い評価を受けて練り上げられたものを元にした『西遊記』と違い、儒学を修め、民衆から遊離した文人が部屋で書いたものは限界があるという事ですかな?