晴れてて暑いです。

 最近子供の自殺がよく新聞に取り上げられ、学校側が批難されるのですが、なんか、親の責任転換に聞こえるんですけど・・・
 いじめが原因の自殺と言われますが、いじめのない社会など存在しないし、存在し無い物を作り出す事なんかできず、もし作り出そうとしても当座の社会では実現不可能は訳で、抜本的解決にはならないと思います。
 私もいじめられっこでした。小学校ではよく泣きました。ちょっとした事で泣きました。思春期に自殺する事を考えた事だってあります。・・・怖くなってやめるけど。
 大方の人は死ぬのが怖いし痛いからやめるけど、自殺した人はその一線を踏み越えてしまえたわけで、そういう思い切りのよさに追い詰められたとも考えられるけど、しかし『ばか』とか『役立たず』とか『つかえねー』なんて言葉は社会に出ても雨あられのように降り注いできます。それにいかに耐えるか、そして友人をつくれるか、という事でいじめを乗り越えていくのではないかと考えたりもします。
 よく、大人は子供を見守らなくてはダメだというけれど、全て見ている事は不可能であり、将来一人立ちする事を考えれば、いじめぐらい自分の力で解決できなければ、遅かれ早かれ自殺してしまうのではないかと思います。
 では、いじめに負けないとはどういう事かと言うと、・・・自分でも良く解らないけど、何か自信を持てるものがあると人間は生きていけるのだと思います。自信を持てば尊厳が備わり、尊厳があれば、これを犯す気持ちにはならない。
 いや、自分がですね、随分生真面目で固くて、そんでもって比較的公平だという評判が立つと、孤立しているけど何だか一目おかれるという不思議な立場になり、人から侮られる事が減ったんですよ。・・・まぁ一人なんですが。
 もちろん、これが親のしつけの賜物かといったら、そうじゃないんだけど、身を守る術をまず親の立ち振る舞いが参考になり、それから自分で考えて生きていく道を作っていくんじゃないかしらん。
 親が、子供の死の責任を他人に求めるのは、間違いじゃないけど、根本的な解決にはならないと思います。
 いじめは絶対に存在する。私も被害者であり、おそらく加害者だった。いじめをなくすのではなく、いじめに子供自身がどう対処するか。それを考えなければならないのだと思うけど・・・まぁ、生贄を作りたがっている社会だから、そんな風にはならないでしょう・・・