天気予報ははずれました。

 曇りです。薄日がさしています。雪どころか雨も降っていません。このまま雨が降らない事を望みます。そうじゃないとせっかく良くなった風邪がぶりぶり返すですよ。自転車で地下鉄の駅までいきますからね。帰宅は夜十時ぐらいですから、それまで雨よ降るな!ですわい。
 昨日、今川義元についての本を読みました。研究者の間では今川義元という人は戦国大名のサンプルとして貴重なようです。
 ①かなりの勢力を持っていた。②急激に崩壊したため『戦国大名期』の統治形態のまま記録が残っている。③やはり記録が結構残っていること。
 今川家の急速な没落についても、後継者氏真の資質の問題もありますが、その前からだいぶ過酷な税体系を領民に押し付けていたようです。言うまでもなく戦の諸経費という奴ですね。
 義元時代の今川家は、初期には小田原の後北条氏と、後期は三河尾張など西方への征服戦にあけくれていたようで、確かに甲斐の武田領と鉱脈を同じくする金山を開発し、駿府などの大きな商業都市もあったようで、年貢以外の収入もあったようですが、領民から悲鳴が出始めていたようです。それを一挙に解決する方策として、三河制圧、尾張征服があったようですね。
 今川家の尾張攻略は織田家にとって信長時代の最大脅威の一つであったようで、尾張八郡のうち三つは信長の支配を離れ今川方についていたようです。知多半島と今の蟹江や弥富あたりの愛知県西南部、あと瀬戸にあった品野城という城も今川方になっていて、二万五千の大軍を起こした理由は、このあと残りの尾張一国を切り取る作戦の為だったのだろうと推測されます。
 桶狭間の戦いとは、その制圧戦で信長方が手薄になった今川義元本陣をついた戦だったようです。戦いそのものは正面衝突でしたが心理的には奇襲に近かったのではないか、と言われてます。
 織田信長という人は、自分の手足のように動かせる親衛隊を組織する事に熱心でした。弟との内紛にも、親衛隊を主力に戦い、数の劣勢を覆して勝利を収めています。桶狭間の戦いに参加した戦力も、そうした親衛隊が中心で信長の命令の下、一心不乱に突撃したのでしょう。
 対する今川義元ですが、確かに馬廻衆はいるのですが数は多くありません。『信長公記』では供回り三百余りが固まって防戦しつつ後退した模様が描かれています。
 恐らく桶狭間の戦いというものは、比較的大きな親衛隊を持っていた信長軍と旧来の国人衆連合体の軍勢を率いた今川軍との差が如実に現れた戦いだったのでしょう。この戦いで、本陣に詰めていた今川方の名のある武将は、ことごとく討ち死にしています。今川家の領域支配を担う武将達がほとんど死んでしまった訳ですから、その前にあった過酷な徴税と氏真の武将としての能力のなさもあって、今川家は急速に滅亡してしまった、という訳ですね。
 今まで戦国時代の尾張の庶民の様子を描いたものを読んでいないのでなんともいえませんが、尾張の国というのはよほど豊かな国だったらしく、朝廷への献金も他の大名家の百倍以上の四千貫を一度に渡せるほどでした。これは尊皇家と言われた信長の父、信秀の時代ですが、これに匹敵するのは西中国と北九州を領有する大大名、大内義隆ぐらいなものです(累積では大内氏がダントツ一位です)。今川家は百貫ぐらいしか献金していません。
 隣国の美濃や伊勢では飢饉の記録があるのですが、失われたのかどうなのか知りませんが、尾張で少なくとも戦国時代に飢饉があったという記録は、今のところありません。事実上三国の太守だった今川義元ですが、実際の経済力は織田家よりも劣っていたのかも知れません。だからこそ尾張を征服する為に大軍を起こして征服しようしたようですが、それが今川家そのものの命取りになってしまった事は皮肉なものです。