台風接近中にも関わらず晴れてます。

 天気予報ですと、明日の晩から明後日の朝にかけて台風が東海地方に接近するようですが、今の時点で良く晴れてますよ・・・どっちか、はっきりしろい!
 先日、金沢貞顕という鎌倉時代末期の武将、歴史上の人物の評伝を読みました。鎌倉幕府側の北条一門で、滅ぼされてしまう人ですな。
 今まで読んだ本では、最後の北条得宗(本家)高時の暴政により、また御内人の専横で鎌倉幕府は滅亡したと書いてあるのが多かったのですが、体制側の金沢貞顕の資料を調べると、北条高時という人は病弱で物静かであり、闘犬狂いという訳でもなく、病気がちで体調が良くなったら、闘犬見物などして気晴らしをしていた、というのが本当のところらしいです。暴政を行うようなエネルギッシュな様子はまるでない。
 高時が執権の時は、彼の側近グループが先例第一で保守的で穏健な政治を行っていたらしいのですが、彼が危篤状態になってから状況が一変したようです。三十二歳ぐらいで出家したらしいのですが、得宗を継ぐべき彼の子供(邦時)は生まれたばかり。それで高時の弟泰家を担ぎ出す派閥と、あくまで高時の血筋を推す派閥に分かれてしまい、そこで収拾がつかなくなったというのが事の真相のようです。
 加えて、当時皇位継承持明院統大覚寺統の二派に分かれていましたが、大覚寺統嫡流天皇が早死にしてしまい、中継ぎとして天皇になった後醍醐天皇が自分の血筋を大覚寺嫡流にしようと画策していた事が重なり、また幕府が御家人の既得権利を守り新興勢力、悪党と呼ばれる人たちを排除しようとしたので、それらの不満が溜まり、そうした不安定な世の中で幕府内が二つに割れてしまったのが原因で、事態の収拾が不可能になったというのが流れのようです。
 そう書いていると、後醍醐天皇って野心家なのね・・・まぁ、とってもどぎつい人だと思うけど。
 ずっと不思議に思っていたのは、高時が馬鹿をやって幕府滅亡になったにしては、北条一族からの離反があまりになさ過ぎで、ことごとく討ち死にしている状態が異常だと思えたのですが(確か落ち延びた高時の子供以外は、弟の泰家ぐらいのはず。生き延びる事ができたのは)、その本を読んで合点がいきました。リーダーの資質の一つに、我々がついていないとこの人はダメなんだ、と思わせる。というのがあるらしいのですが、病弱で物静かで、大人しい嫡流の高時を守る為に、北条一門は戦場で死んでいったのかもしれませんね。うう、涙、涙・・・