・・・本当に台風くるのかな?

 風は強いです。しかし雨は降っていません。蒸し暑いです。とっとと通過して欲しいです、台風。明日のビアガーデンに支障が出るやんけ!(あ
 昨日の続き。金沢貞顕という人、実は一度失脚した家柄でして、蒙古襲来の後、幕府内の政策を巡って御家人拡大派と現状維持派に分かれて主導権争いをしたらしく、結果として拡大派の安達氏は他の御家人たちにも疎まれて滅ぼされます。(のちに復活するけど)その時に親父の顕時さんが連座したらしく隠遁に追い込まれるのですが、しばらくして得宗貞時が彼らを復権させます。
 家柄としては、そこまで上り詰めた事はなかったのに、六波羅探題南方となり、引付頭人になり、六波羅北方、そして得宗高時の連署になり、短期間とはいえ執権もしました。結構な出世ですが、周りを引っ張っていく「俺が!俺が!」の人ではなく、気配り、調整役の人であったらしく気弱です。
 鎌倉の『金沢文庫』を創設した家柄の人らしく、六波羅時代には色々資料を集めているのですが、その理由が、自分の一族出身者が六波羅探題執権として代々やりたいが為、らしいのです。当時は家柄によって職能が決まっていました。職業選択の自由が抑圧されている、のではなく、職業のノウハウを教える機関がなく、だいたい親から子に伝えられるモノという感じであったからなんですねぇ。この時期に摂関家とか、この家柄はここまでしか出世できない、とか、朝廷の貴族達の家柄序列が決まっていくのですが、その背景も朝廷の儀式を行う決まり事を知っている家柄は、こことかここしかない、ってな風に固まっていったかららしいです。
 なので六波羅探題の裁判記録とかを集積しておけば、のちのち子孫がその役職につける理由になりますし、つけなくてもその知識ゆえにないがしろにはされない、という訳なのです。
 他にも北条家の中での序列決めが官位によっていて(江戸時代の大名と同じ)、その位が進んだり追い越されたりで一喜一憂しているさまを見ると、どこもかしこも人間、やる事は変わらんのだなと、思いましたねぇ。
 さてさて、台風よ、とっとと去ってくれんかのぉ・・・