暑いですな

 夕立が欲しいところです。雷は鳴りましたが、肝心の雨は降ってきません。ヨヨヨって感じです。
 割と手当たり次第に愛知県図書館の本を読んでいますが(歴史関係の学術くさい読み物中心ですが)、最近読んでなるほどと思ったのは平安期の貴族たちのこと。岡野玲子氏の(もはや夢枕獏氏の影響はほとんどなくなった)『陰陽師』を読んでいると、登場人物に藤原兼家とか源高明とかが出てきて彼らの権力争いの様子がニュアンスとして現れてきますが、平安中期は家柄が流動的であったようで、養子というのも余り目立たず(一段階緩い猶子というのはある。財産相続とかは発生しないが、親は猶子の便宜を図ってやり、猶子は親を支持する。今でいうと派閥の親分、子分かな?)、家という存在が中世ほど絶対的ではなかった様子が新鮮でした。
 一族間での栄枯盛衰も激しく、藤原兼家は師輔の三男ですが兄達と熾烈な出世競争をしており、まず長男の家系が子孫の夭折で脱落。次兄兼通には関白になるのは先を越されますが、自分が娘を複数天皇の妃に差し出しており、結構強引な手を使いましたが(天皇を出家させて退位させた!)自分の孫を天皇にする事でミウチの立場を強化。以後天皇外戚になった有力者が政権担当者になるという道筋を決定付けました。
 長男家系が藤原家嫡流という中世の認識で言うと、これはある意味『下克上』なのですが、平安貴族たちは、それなりの実力主義で一族の繁栄を勝ち取っていたんですね。
 ちなみに藤原氏の二代目と認識されている不比等の長男は武智麻呂であり、彼を始祖とする南家が嫡流であるべきですが、奈良時代の武智麻呂次男、仲麻呂が政変を起こし失敗、没落しています。兼家の父、師輔も次男で、彼は天皇に娘を妃として差し出し、皇太子の外祖父となりましたが、おしくも寿命に恵まれず、実力有と見られながら摂政関白にはなれませんでした。そう考えると兼家兄弟も実力で政治首班の座を争っていたわけで・・・いやはや、平安貴族はお気楽〜などとは言えない世界なのでありまするよ。
 日本の歴史で所謂『戦乱』がなかったのは徳川幕府の支配した時代だけです。平安時代は東北征服戦あり、平将門藤原純友の乱があり、平忠常の乱あり、前九年、後三年の役・・・思いついてもたくさんあります。平和な時代なんかじゃありません。厳しい時代なのです・・・いつでもそうだけど。
 あっ、夕立が激しく降ってきました。今夜は、少しは涼しくなるかな?