雑賀衆の本を読んだ。

 解らない人には解らない戦国時代ネタでもマイナーです。主に本願寺と一緒に戦った戦歴が有名な、今の和歌山あたりの国人衆・・・なのかな?大きく分けて五つの集団があり、鉄砲で武装して最後まで天下人に逆らい続けた人たち・・・でしょうかね?信長、秀吉、家康の政権が中央集権的な近世の支配体制だとすると、割拠型の社会構造にこだわり続けた人々という事でしょうか?要は「自分らは自分らで勝手にやる」という考え方の人たちです。
 鉄砲で武装している「百姓」とか「一向一揆」とか言うと、江戸時代のイメージと合わなくて変に思う方もいらっしゃるかもしれませんが、「百姓」とはもともと諸々の民を意味し、必ずしも農民に限定していない呼称ですし、「一揆」とは騒乱そのものではなく同盟とか連合とかの意味合いですので、「一向一揆」とは一向宗徒の同盟体であり、必ずしも農民主体でもないのです。
 良く昔の日本は自給自足していた・・・とか言われるのですが、これ、間違いです。農民が人口の大半を占めていた・・・ってのも間違いです。だいたい国土の七割が山林なのに、どうやって農業だけで食っていけるのさ。故網野善彦氏によると、百姓=農民との観念は、石高制で支配していた江戸時代武士の論理で、石高に関わらず裕福な人たちもいたようです。
 実際石高計算だと戦国大名として有名な武田や今川、尼子なんて大名は大変貧弱な存在でしかない。しかし武田は信玄の活躍のみならず中部日本で有数の勢力でしたし、今川も京の貴族と交流し万規模の兵力を動員できました。尼子氏にいたっては中国山陰地方を中心に十カ国に影響力をもったほどです。彼らの力の源は武田は金山、今川は金山と海運交易、尼子は銀、鉄の鉱物と朝鮮や沿海州(現中国東北部)との交易でした。他の各地でも、痩せた土地にも関わらず立派な邸宅を持つ地域とかあり、雑賀衆のように鉄砲で武装して信長軍に何度も痛い目を合わせた人々もいます。彼らも交易や塩などで稼いでいたようですね。
 確かに日本人の中には農業、特に米をつくらないと一人前の人間扱いされない風潮があったようですが、それはそれとして、あるところからないところへ物を運び、それを生業にしていた人々が結構いたわけで、自給自足の社会とはとても言えないのです。
 ある人のエッセイに戦後の日本人は無意識に自給自足を捨てて、他国との交易でやっていこうと決めたようだ、という文章がありましたが、しかし、こうやって振り返ってみると、日本人が自給自足で生きてきた事は、かつてほとんどなく、脈々と交易によって生きてきた人々なのではないか、と思えてきます。日本人の売りである「和」ってさ仲良くやろうって事でしょ。自給自足の自閉症には思いつかない事だと思うな。
 歴史認識がどーのこーのとか言う人がいるけど、そういう人こそ、あんまり歴史を掘り下げて読んだり考えたりしないのではないかなーっと思ったりしました。・・・長いな、今回・・・