偶然なんです

 というか、自分が知らなかったという事で、ほんと世の中は知らないことばっかりで面白いですわ。とりあえず読み終えた本の方から。

 たぶん大河ドラマで取り上げられた頃ぢゃないかと思うけど、この手の本はそういう時に出てきます。山内一豊の評伝ですが、叔父の一人が木曽川町の人で、十年ぐらい前、まだ痴呆症になる前でしたが郷土史研究で山内一豊をやっていたらしいです。新聞に載ったものを見せてもらったけど、実は読んでいない。郷土史家というタイプの方は、どうも史実と物語を一緒くたにしている印象があって警戒してしまったんですな。その当時は山内一豊に興味もなかったし・・・もてはやされるものを敬遠するという悪い癖が出ました。
 著者は山内家の残した膨大な資料・・・宝物とか古文書とかとにかくすべてを管理している資料館の学芸員の方で、これならバランスのとれた本だろうと手にとった次第。
 まず出身地は確定していません。前述の叔父は木曽川出生説をとって「郷土の英傑」と位置付けていましたが、実には岩倉にもあるらしく、どちらがどちらという決め手がない状態です。
 父親が織田伊勢守家に家老として仕えた他国者であったようですが、信長との抗争で彼の兄とともに戦死。家族、二人の家臣とともに流浪した後の事は不明。次に出てくるのは長浜城主となった秀吉家臣としてでして、彼のキャリアは秀吉の元で実直に重ねられます。
 羽柴秀次が秀吉後継者の一人として取り立てられると、秀次宿老になりますが直接指揮は秀吉からもらっていたようで、いわば若い秀次のお目付け役。なので秀次が失脚しても地位は安泰。
 しかしこの秀次目付グループは一つの集団として行動していた様で、田中、中村、堀尾、一柳、池田の各氏は秀次存命中の小田原合戦や関ヶ原合戦でもまとまって動き、配置もほぼ同じ。戦功もほぼ同じだったようです。
 ちなみに、関ヶ原の戦功で土佐一国をもらった大出世!!と言われますが、土佐の石高は九万八千石、掛川五万石の1.8倍くらいで妥当な加増です。しかし土佐二十四万石と言われているので、なんで?という疑問が湧きますよね。土佐の実石高は九万八千石に過ぎないのですが、んぢゃどうして?と思うぢゃないですか。実はこれ、収入に関係ない家格の事なんですね。もちろん家格維持には莫大な支出があります。格式維持の為の装飾代、人件費が物凄い事になる。恐らく塩とか木材とか、そういう商品作物系の収入で何とかしていたと思いますけど、それでも実収入の倍以上の価格をなんで?と思いますね。これ阿波の蜂須賀家と四国一の大名の家格を争っての事なんですわ。・・・ふう。まぁ収入でも影響力でもあちらの方が上なんですがね。
 ちなみに「賢妻千代」は名前は定かではありませんし、多くのエピソードが一次資料では確認できません。ただ夫と手紙のやりとりを頻繁にしており情報収集に余念がなく、夫の行動も彼女との話し合いで決していたようで、秀吉の寧々みたいに妻=参謀の一人みたいな風です。一豊が亡くなった後も、つまり関ヶ原戦の後も豊臣家とのつながりを保つため在京していたようですから、まぁ大坂の陣の前に亡くなっていますけどね。
 しかしこれは山内家特有のものではなく当時の武将たちは多かれ少なかれ、このような家政状態で戦国を生き抜いたのではないでしょうか?その意味では山内一豊は大多数の戦国武将の典型という事もできる訳ですね。
 んで、なんで偶然かというと、一豊が秀次の宿老を務めたと知らずに豊臣秀次の評伝を今読んでいる訳でして、期せずして多角的に二人を見る事ができる訳ですよ。やるな、自分(ドヤァ