まだ読了ではないです

 でも大方読んだから、いいよね?

朝倉孝景 (中世武士選書23)

朝倉孝景 (中世武士選書23)

 昨日は応仁の乱の西軍の実質的な総大将である山名宗全でしたが、今日は西軍から東軍に鞍替えした朝倉孝景の評伝です。同盟で戦国期に朝倉氏滅亡時の当主義景の父親がいます。この時代、前時代の当主の跡継ぎである事や、先祖の後継者である事を表す為なのか、国人層の継承が混乱した侍の家で父親や、先祖、または養父の名を継承する場合が、時々見られます。朝倉氏もそうなのですかね?
この朝倉孝景は実質的な初代戦国大名ともいえる人で、幼い、あるいは無能な当主が続いた斯波氏の当主継承で分家筋の義敏が継承する事になった時、彼は国人階層の力を背景に権力を握ろうとし、それまでの守護代を司った甲斐氏織田氏や、それに準じる朝倉氏と対立、抗争に入りました。これに対して自分の血縁者である渋川氏から義廉という継承者をねじ込んだのが山名宗全で、この義廉と結んだのが甲斐、朝倉、織田でした。
 この抗争で朝倉孝景は活躍し、国人堀江氏に大打撃を与えて義敏を追放し、越前の実力者となります。その後義敏側の巻き返しと政争による没落を経て応仁の乱に突入。孝景が西軍に属したのは、山名宗全につながる義廉派であった為であり、その主力として戦場で活躍しましたが、政争による形勢の変化から東軍に鞍替え。甲斐氏と抗争しこれを打ち破り越前の第一人者となりました。
 ややこしいのは、この時、孝景憎しで義敏は彼の和睦せず、孝景と抗争して東軍からももてあまされていたとかね。
 家訓とかに残っている考え方として、合理的な家臣登用や国外での積極的な情報収集があげられ、あんまり国外遠征はするな、熟慮しろと言っています。その一方で戦力としてはやはり侍を評価し、足軽に関しては補助戦力という認識みたいです。一本の名刀より百本と槍と言いますが、その槍を装備するのは(長槍でないところから見ても)
侍を意識しているようです。
 室町期から戦国期への過渡的な人物という評価が妥当ですかね。しかし、その合理性は同時代人の考え方と比較すると画期的でした。最初の戦国大名の一人にふさわしいかも知れません