被差別者の研究
最近はあまりそういう事が話題に上らなくなりましたが、二十年ほど前は結構、こういう話題が社会問題として取り上げられていました。特に意識した訳ではないのですが、興味を覚えたので。
- 作者: 服部英雄
- 出版社/メーカー: 山川出版社
- 発売日: 2012/05/01
- メディア: 単行本
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声聞師の方も、芸能や陰陽道、そういった方面で食べていた人々で村々を回って祭りに携わったり、特権階級の抱え込まれたりという感じです。
河原ノ者は芸能者ではなく、牛馬を解体し、その皮革を加工する技術者が中心。そして特殊な土木工事も請負い、井戸掘りや造園などを行いました。こちらは加工に必要性から河原に集落をつくり、そこで生まれ育っているので、なかなか平民に上がる事はなかったようです。
らい病患者に関わる人以外では、だいたい技能者、技術者の側面が強く、農民が一人前の人間とみなされる一方、今では技術立国とかいわれているけれど、昔は差別される対象になる事が多かったようです。一つには遍歴の職人はなかなか信用されなかったという側面もあります。
松平氏の先祖が有徳人に婿入りした遍歴職人という説があり、それを時衆の僧と言い換えて伝承しているのも、同じ遍歴者でも僧ならば差別が少ないという事ですかね。
さて最後に秀吉の事なのですが、母親が春をひさいで生活していた時の子であるらしいこと、継父と折り合いが悪くストリートチルドレンのような生活をしており、それから行商人に転じ、最初は今川家臣の松下氏に仕えました。その松下の苗字から公をとり木下と称したのではないかといいます。
そして秀吉には子種がなかったのではないか、鶴松、秀頼は秀吉の子ではなく、茶々と豊臣家の後継者を生む契約をして側室に迎えたのではないか、ということ。鶴松までは豊臣家側も承知しており計画していた誕生でしたが、秀頼は茶々、淀殿の独断での出産であり、そしてそれを秀吉が認めて後継者にしようとしたところから、豊臣家の歯車が狂ったのではないかという説を述べています。
秀次後継は鶴松の死後であること。秀次家滅亡が前例のない妻女にまで及んでいること(刑死の場合、幼年といえども男子は容赦されなかったが女子は生かされる通例だった)、そして関ヶ原の戦いにおける豊臣恩顧のみならず一族までもが東軍に回っていること、などからです。
広義の豊臣一族は、正妻高台院、つまり寧々の縁者が含まれており、浅野長政、幸長は寧々の妹の夫であり子です。そして小早川秀秋は秀吉と寧々の子として育てられました。加藤清正、福島正則らは秀吉と寧々の手で育てられた者たちです。そして前田家は秀吉寧々夫婦と親しい付き合いがありました。彼らは全て東軍に属しています。
そう考えると興味深い説だと思います。
最後に、差別はだいたい差別する相手をよく理解せず、風聞のみで嫌悪する場合が往々にして多いと思います。うちの祖父母、父母の言動を見ていると、そういうところを目にします。まずは相手を人間として理解するところから始めなければならないのでしょう。その上で、人間として相容れないならば、仕方ない話なのでしょうけれども(あ
でも人格が許せないというのはよほどの事がなければないと思います。生まれではなく、その人の人格で人への好悪を決定すべきだと思います。