雨降りそうデス

 この雨のおかげで週末は冷え込みそうですネ。それはさておき、読んだもの。

天皇の思想―闘う貴族北畠親房の思惑

天皇の思想―闘う貴族北畠親房の思惑

 編集さんと著者が考えた題名だそうですが・・・なんか間違っている臭い。
 主題は『絶対君主制』の院政承久の乱で破壊され、伝統社会のアイデンティティが崩壊してから、朝廷が自己の統治者としてのアイデンティティを再構築して、そして最終的に後醍醐天皇に破壊されていく様を描いています。・・・たぶんあっていると思う。
 法然によって提唱された『阿弥陀仏の下には皆、平等』という一神教に近い観念が(日蓮の題目もそう)、自己鍛錬を目的とする禅宗が流行った事も関係していると思いますが、承久の乱までは君臨すれど民草は放置せよ的な税金を収奪するだけの朝廷が、天皇治天の君たる上皇自らが訴訟の決済に携わり、東国の鎌倉幕府と強調して西国の支配を行うようになりました。
 ただ、鎌倉幕府の勢力争いで、幕府を全国の全ての人々を庇護、統治する組織に変えていこうとする勢力と、北条得宗家が強大になる為に、御家人の絶対支持が必要で、その為ならば経済的に間違っている政策(御家人の借金棒引きという乱暴な話)もやっちゃうとう勢力が激突して後者が勝利した事により、つまり朝廷を協力者ではなく、競争者、仮想敵とみなした勢力が勝利した事により事態は変わります。
 具体的に言うと両統迭立という南北朝の素地ができた訳で(承久の乱以後の皇位継承は幕府の意思を無視する事が許されなかった)、それでも統治運営する為には幕府の圧倒的な武力を必要とした朝廷は幕府と融和する道を選んできました。
 ・・・そう、後醍醐天皇が現れるまでは。
 もともと大覚寺統の中継ぎ天皇としてリリーフした彼が、歴代天皇は逆に、何故徹底的な反幕府に凝り固まっているのか?自分が知っている限りの説明では、皇位継承に口出しする幕府を排除して、自分の子孫のみに皇位を継承したかった、という事なのですが、当時の朝廷内の空気を知る限り、狂気の沙汰です。
 当時、二系統に分かれた朝廷には三種類の貴族がいて、一つは大覚寺統べったり、一つは、もう一つの持明院統べったり、最後の最大派閥・・・って訳でもないけど、どっちの系統の天皇だろうがお仕えしますよ、というノンポリ。しかしその誰もが当初は後醍醐天皇には積極的に仕えなかったようなのです。持明院統派の貴族はともかく、他の連中はどうしてか?決まっています。中継ぎの天皇に下手に仕えて、大覚寺統嫡流天皇が位を継いだら、どんな結果になるか判らないから。それに幕府と協調する事こそ朝廷の生きる道と自覚している貴族たちが、幕府をぶっ飛ばせ、という過激な後醍醐天皇に協力するか?個人的に後醍醐天皇に私淑する者ならともかく、大多数の貴族は敬遠したい人物ですよね。
 これを知って思いついた後醍醐天皇への評価は『裸の王様』です。実際に統治する方法も知らず、現実離れした復古主義にとらわれて政権が瓦解したのも、うなづけるというもの。ただ、どうしてそこまで強烈な個性を得る事になったのか、それが知りたいところ。
 あと、著者が面白い事を書いているのですが、南北朝の戦乱は、1351年に南朝が京を占拠し、北朝上皇天皇を根こそぎ拉致していった事件でほとんど勝敗が決まりました。北朝皇位継承を困難に陥れたけれど、できた事はそれまで。せっかく占拠した京を維持できる軍事力すら持ち得ない事を露呈した南朝の劣勢は明らかでした。
 かなり強引な皇位継承を行って、南朝の妨害も無意味なものにしてしまった室町幕府。もはや軍事的に南朝を制圧するのも時間の問題でしたが、南北朝統一を果たすのは、その数十年後です。何故か?それは幕府が朝廷に対して「君らの代わりは南におるんだよ」と無言の圧力をかける為に使ったのではないか?そして朝廷の権限をほぼ吸収したのち、朝廷を骨抜きにしてしまってから南北朝統一を果たしたのではないか、と。
 事実、鎌倉時代までは訴訟を処理する機能を有して、徴税能力もあった朝廷は幕府から資金をもらわなければ儀式一つできない存在になりはてます。組織は存在するが実体はなきに等しいもの。
 徳川光圀が『大日本史』を編纂した時、そうした事実を踏まえて南朝を正統とし、軟調の滅亡を持って皇室の歴史は事実上終わった。あとは武家が日本の主権者となった時代である。そういう認識だったようです。そりゃそうだよね。自分の祖父さんの事跡を否定したら、自分が支配する理由も否定する事になる。
 これを現在のような形に変えたのは幕末の学者たちだったらしいですよ?自分たちの都合がいいように、ドリーミーな方向に変えたという訳ですかね。
 なんか、少しすっきりした気分です。はい。