大雨の被害が出ているようです。

 ダンジョンズ&ドラゴンズ愛知コンベンションの代表も身動きが取れない状況だったようで・・・遠方からおいでになる方は、今夜から明日にかけて名古屋に向かって移動されるようです。名古屋近辺の今日の天気予報は曇りときどき晴れ。明日は晴れるみたい・・・そのまま梅雨明けしてくんねーかと思うのですが、いかがですか太平洋高気圧さん。まだまだですか?
 今、昨日借りてきた『関が原前夜』という本を読んでいます。西軍に属した大名側に残された資料から、当時の状況を読み解き推測している本ですが、少し新鮮だったのは、秀吉が死の数日前まで政務をとっていたこと。秀吉の方針としては今まで従弟を世継にしていた毛利輝元に実子が生まれたのにともない、それまで養嗣子としていた秀元に新たに領地分配を行う事になったのですが、毛利氏本家の力を弱める為に秀元有利に領地分配を指示していたこと。
 ところが数日後に秀吉が亡くなり、徳川家康派と五奉行派に対立した豊臣家。武力の上では徳川派に劣る五奉行派が毛利輝元に接近する為、秀元の領地分配を輝元有利に変えたこと。その後の政治的緊張で五奉行派のうち石田三成が失脚し、改めて秀元有利に家康主導で領地分配が決定されたこと。石田三成を盟友視し、彼一人に泥をかぶせる形になってしまった輝元は、どうも家康に対して一矢報いる機会を狙っていたらしい、との事。
 通説ですと毛利輝元は単なる担ぎ上げられた総大将というイメージだったのですが、三成挙兵の報を聞いて三日後には本拠地広島から大坂城に軍勢を引き連れて移動しています。比較として輝元が始めて上京した時、物見遊山しながらとはいえ十日前後かかっています。両方とも船での移動です。これは日和見で参戦していては決してできない芸当で、毛利家がこの日がある事を予想し、瀬戸内海を短期間で移動する方法を研究準備していなければできない事で、この一事からし毛利輝元は祭り上げられた西軍総大将ではなかった・・・という話なんですよねー。
 まぁ200万石の領主がそううかうかと騙されて行動できる筈もないですし、その当時の最大権勢者は、自国、自家の領地分配を自分たちで決着できなかった毛利家ではなく、それに介入する事ができた家康の方ですから、それに対抗するとなると、相当やる気がないとできません。やはり妥当な考えなのかも?

関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い (NHKブックス)

関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い (NHKブックス)