おお、雪だ。

 今は止んでいますが、先ほどまで降っていました。降っているのを見るのは好きです。積もっているのを見るのも好きです。でも・・・外へ出るのはちよっと・・・。
 昨日図書館で借りた本を全て読み終わったので、返却しに行く前に上がったのは良かったですよ。そして読み終わった本。

鎌倉政権得宗専制論

鎌倉政権得宗専制論

 えーっと、読んで目から鱗でした。十年以上前に出た本だったのか。うー、不見識でした。
 話題としては、鎌倉幕府の事実上の支配者であった北条氏、そしてその本家である得宗家とその被官、つまり家来ですね、そして分家の庶家が一体どのような法則で鎌倉幕府得宗家の支配機構に関する人事を行ったか、って事なんですが、武士って割りと実力主義だと思っていたのですけれども、当時京の朝廷で行われていたように、家の家格というものが決められて、その家の出身者でないと、その肩書きがもらえない、役職につけないという硬直した組織、社会ができあがろうとしていたみたいです。
 たとえば鎌倉幕府崩壊の諸悪の根源と言われている内管領の長崎氏ですが、彼らは一度滅亡しています。ところが数年にして一族傍系が復活しています。何故か。それは北条泰時以来七十年あまりに渡って長崎氏が北条得宗家の執事を勤めた家柄であり、彼らこそが得宗家執事、つまり内管領になるべきだ、という認識が幕府、北条氏内部にあったためです。
 唖然としたのはその実力者と言われた長崎円喜と同等の権力を握っていたと言われるのが、太平記ではちっとも出てこない、そしてかつて霜月騒動で長崎氏に滅ぼされたという安達時顕という外様御家人。実は安達氏は外様といっても北条得宗家の外戚という認識がありました。北条時頼の母親、北条時宗の妻はこの安達氏の出身ですし、霜月騒動で滅ぼされたのもそういう北条得宗家の外戚という地位で権力を持っていたらからなんです。で、彼らも長崎氏が一旦滅ぼされた時に復権するのですが、理由が「得宗家の外戚である家柄だから」・・・え?
 鎌倉時代末期に北条庶家を押さえて権力を握った彼らは、実力、能力故ではなく、先祖、一族の功績でその地位を得たという・・・。そして最後の得宗北条高時が無能であろうと有能であろうと関係なく、少年期にとっとと執権にさせるし、病を得たからといって二十四歳で彼が出家する際にも誰も止めない。・・・本来出家とは俗世間との関わりを断ち引退する事を意味したというのに、そんな事はまったく問題なし。執権という地位すら形式でしかなくなっている。
 全てが先例優先であり、本来公家の悪習とも言われそうな事を鎌倉幕府もやっていた訳で・・・なるほど、末期の諸問題に対処できない訳だわ。
 でも面白いのは、後世の武家指導者は朝廷の高い官位をもらい煌びやかに自分を飾り立てるのに、北条得宗家は任官こそ十代で公卿なみなのに、上る官位は五位、つまり地下人。朝廷は幕府の要請を結構飲まされているので、彼らが望めば殿上人どころか、大臣級にもなれそうなのになっていないのです。
 これはもう「北条得宗家」ということ自体にステイタスを持っていたとしか思えません。ある意味凄い自信と自意識ですねぇ。