晴れてます
暑くなるかもと思って半袖を着ています。現時点では失敗気味。日中は暑くなる予定なのでモーマンタイと思いたい。
読み終わったもの。
田沼意次―御不審を蒙ること、身に覚えなし (ミネルヴァ日本評伝選)
- 作者: 藤田覚
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 2007/07/01
- メディア: 単行本
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収賄の親玉のように見なされながら、ご本人は当時の常識的な贈答のやりとりに留まっていたようです。しかし六百石の旗本から最大五万七千石の大名への出世というのは、それも戦ではなく役人としての出世ですから、部下の教育まで行き届かなかったというのが現実で、しかも当時の召抱え状況でも武士身分を雇う状況ではなかったようです。
この人のように小身から十万石の大名に出世し、曲がりなりにも幕末まで存続したのが柳沢家ですが、こちらは当時大名の改易が結構あったので、失業した元家老とか上級武士もいたので彼らを召抱えれば、それなりの家中統制も行えたようです。
ところが田沼意次の時代はなるべく改易せずに大名に不行跡があればなるべく隠居謹慎させて、ちょっと無理な養子縁組も許していたようですから、雇える上級武士身分が少ない。出身が農民、商人、職人という者がどうしても多くなってしまう。そんな彼らは武家社会の倫理観や慣習には疎いですから、贈賄されたらどんどん収賄してしまい、しかも意次本人は幕政にかかりきりで部下の統制もままならない。結果として田沼家の収賄イメージが膨らんでいく、という感じですね。
それに彼がとった政策も、柔軟な発想力があるにせよ、大局を見通して長期的に開発する事ができず、あるいはその観点が乏しい『山師』のようなものが多く、結果として稚拙を免れず失敗していったようです。
ご本人は忠義を尽くしたというのに、結局政敵に敗れた事を理解せず、一万石の大名にまで転落、失脚、しかも自分で建てた城まで壊さなきゃならなかったし、そして失脚が決まった途端、手のひらを返すように絶縁してくる同僚親戚を見て、晩年の彼は絶望したのではないでしょうか。
この人は徳川吉宗が将軍の時にできた制度に乗っかって出世し、そしてその子供、孫たちが意欲的に政治に取り組まなかった異により不相応な権力を握り主導し、失敗したという、徳川将軍側の都合に振り回された人生だったのかも・・・?
まぁそれでも一時は中堅大名にまで出世し幕府で並ぶものなき権力者になったのだから、本望なのかな?