熱帯夜です

 台風のせいです。暑いです。くらくらしちゃいますですよ。調子に乗って日本酒とビールを飲んだので余計にくらくら・・・
 谷口克広という方の『検証 本能寺の変』とかなんとかという本に面白い事が書いてありました。
 羽柴秀吉とライバル関係にあったとされる、織田信長を殺した明智光秀の年齢についてです。定説では亡くなったときの年は五十五歳なのですが、『当代記』という文献には六十七歳で亡くなったと書いてあるのだそうです。五十五歳説は『明智軍記』とかあまり信用できない文献に載っているものだそうで、『当代記』も『明智軍記』に比べると少々マシ程度の信用度しかない史料なのだそうですが、それでも六十七歳説を谷口さんは主張されます。その方が自然だといいます。
 明智光秀が本能寺で信長を殺した原因に関わる話なのですが、直接の原因は彼が取次ぎをしていた長宗我部氏と織田家との断交、敵対にあり、そもそもの外交窓口であった光秀の頭越しに、秀吉に淡路攻略をさせたり、三好氏へ養子に出した信長三男信孝を四国攻め総大将にしたりと信長は光秀の立場をなくすような措置をとります。くわえて六十七歳という年齢であったなら他にも理由が出てきます。光秀は長らく流浪の身で子供たちも遅くでき、しかも嫡男光慶は十三歳の少年に過ぎませんでした。六十七歳といえば当時では老年、もはや余命いくばくもない年です。もし今自分が死ねば残された一族はどうなるか?実力本位の信長が十三歳の少年に光秀ほどの権限や領地を継承させる保障はどこにもありません。働きが悪いとばかりに長年功労のあった老臣を追放するぐらいやってのけるのが信長です。
 そして光秀自身は活躍の場を奪われ、信長から高い評価を受けた丹波平定以来三年も彼自身の征服事業はありません。今また長宗我部氏との外交窓口という役割すら失い、光秀は高い地位と大きな権限を持ちながら中ぶらりの存在になってしまっている自分に気づくわけです。
 このままでは詩自分の子孫たちの立場はない。自分亡き跡、急速に没落していくのは目に見えている。ならば目の前にある状況を利用していっそのこと信長、信忠父子を殺してしまえば・・・そう考えたのではなかろうか?といいます。
 今までいろいろな説を読んできましたが、この説は矛盾が少なくて無理がありません。ただ六十七歳説の根拠が一次資料とはいえないものであるのが弱いといえば弱いのですがネ。
 本能寺ネタはこの辺が妥当なのかもしれませんよ?